今年は現憲法が施行されてから70年になる。すなわちこの年に生まれた我々が古希を迎えるということになる。「団塊の世代と言われる世代の先頭」でもある。余談だが、この「団塊の世代」は堺屋太一の造語だそうだが、私自身はこの一括りには、当てはまらない人生を過ごしてきたと、自戒と自負の入り混じった思いもある。この年寄に何ができるか?たぶん何もできない。
憲法学者の長谷部恭男早稲田大学教授:「立憲主義に生きる経験は僥倖である」(朝日新聞)と言っています。
(注:僥倖=予想もしなかった幸運の意)将棋の藤井聡太君がインタビューでこの言葉を使っていたのには驚きました。
およそ凡夫の私のこれまでの人生を振り返ってみれば、現憲法下でただただ大量生産・大量消費のレールの上で一生懸命働いてきたことも事実である。今は労働時間は何時間まで、過労死の問題等々、隔世の感があります。さらにこの平和憲法のもと、「戦争を知らない子供たち」と言われ、今日まで軍隊と言う名の組織の一発の銃声を聞くことなく、生きて来られたのは『僥倖』と言えるかもしれない。そして、まずこの歴然たる事実をしっかり認識すべきであろうと考えています。
言うまでもないが、当時は連合軍(米軍)占領下にあったが、現憲法が出来るまでに、先人たちが「平和国家」という文言を導くまで、試行錯誤していたことが、報道されていました。幣原喜重郎も9条の文言は、日本側から提案されたとインタビューに答えています。このこと一つをとっても、たとえ占領下であっても、彼ら(マッカサー)の言い分を唯諾々と受け入れただけだはないことが垣間見られます。また昭和天皇ご自身もGHQ草案をみて「いいじゃないか」と発言されていた旨のメモが出た来た。(朝日新聞)そして、当時の多くの国民がこれを喜んで受け入れたこともまた事実であろう。でなければ、70年も続かないだろう。決して、押しつけ憲法言われるようなものではない。
21世紀の世界が渇望する世界平和を70年も前にこの国は、反省も踏まえてその理想を世界に宣言した、誉れ高き憲法である。正し、憲法とて不磨の大典ではないでしょうから、必要とあらば憲法の規定に則り改正(あくまで改正であって改悪ではない)するのはあってもよいとは思います。それには今改正議論を始めても、10年以上の歳月は必要ではないだろうか?それだけかけないと、今の憲法の理念を上回る、(為政者の暴走を防ぐための)素晴らしい文言を誰が言えるのであろうか?あるいは10年たっても出て来ないかもしれない。ならば、そのままでいい。
21世紀の世界が渇望する世界平和を70年も前にこの国は、反省も踏まえてその理想を世界に宣言した、誉れ高き憲法である。正し、憲法とて不磨の大典ではないでしょうから、必要とあらば憲法の規定に則り改正(あくまで改正であって改悪ではない)するのはあってもよいとは思います。それには今改正議論を始めても、10年以上の歳月は必要ではないだろうか?それだけかけないと、今の憲法の理念を上回る、(為政者の暴走を防ぐための)素晴らしい文言を誰が言えるのであろうか?あるいは10年たっても出て来ないかもしれない。ならば、そのままでいい。
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