2017年6月28日水曜日

日本は最近元気がない。 これまで知らなかった歴史の面白さ

講談社現代新書 橋爪大三郎x大澤真幸「日本ってこんなにおもしろい!」


  「日本は最近元気がない。経済のせいだと、思っている人が多い。そういう問題ではない、と思う。自分たちがどこから来て、どこへ行くのは、それがわからないからだ。いま何をすればいいか、わからないから。そう歴史の方向感覚を失っているからだ。(中略)
歴史とは「物語」。いまがいまであることを支えている、大事な出来事の積み重ねである。でもしばしば、歴史学者が、このことを忘れている。歴史を教える教員が、このことをわかっていない。歴史の専門家が歴史を理解していないのだ。
日本の歴史は、明治のところで、ぷっつり切れている。それより前の出来事は、明治以降と結びつかいないまま、事実だけが並んでいる。これでは、歴史とは言えない。(後略)

  これは、この書の語り部の一人、橋爪大三郎の「まえがき」の一部である。

  橋爪氏が18の疑問を提示し、それを基に大澤真幸氏との対話本である。大澤氏は「あとがき」で、『この対談は、普通の対談と違う。・・・云々と記しています。



2017年6月22日木曜日

来年は明治150年 教科書でしか知らない明治を改めて読んでみる

鈴木壮一著「明治維新の正体」    原田伊織著「明治維新という過ち」
両書とも毎日ワンズ出版

  両書とも、徳川政権末期の、世の中の動きを、水戸藩の水戸斉昭、一橋慶喜、西郷隆盛、松平容保などなどの歴史上名高い人物の動きを通してこの時期を観ています。

  両書の著者の見方は人物によっては、肯定的であったり否定的であったりしています。それはそれで興味が湧きます。

  ただ、当時の長州藩への見方は両書とも完全に否定的です。これは共通しているようです。

  教科書の明治維新の記述は、いかにも後の政権のプロパガンダ的な記述では?と彷彿させる書であります。

  明治元年から数えて150年、区切りの年に読むのもいい書かも知れません。


  

2017年5月24日水曜日

憲法施行70年 大本営 安倍政権 官僚と報道機関 その6

辻田真佐憲著「大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争」幻冬舎新書

   大本営と言えば。戦争当時の官僚中の官僚の集団である。副題にあるように、彼等はかの有名な「転進」「玉砕」など事実に反する造語を使って、国民に改竄・隠蔽・捏造の情報を発表しました。当時は陸軍と海軍の確執に始まり、陸軍省と海軍省の対立、また同じ省内でも作戦部と報道部の確執などなど、とても一国の組織とは思えない内部対立。一本化されたはずの大本営内部でも、それぞれ意地をはった確執が蔓延していたようです。今も昔も自分の立場が最も大事で、決して向かうべき国民の方には目が向いていないことが分かります。
   加えて、監視役を担うべき報道担当(当時は新聞が主力)が大本営(政治)と一体化して、嘘の情報を垂れ流すという愚行がまかり通っていたようです。国民には真実が知らせられないまま、ずるずると敗戦に傷口を広げていった官僚と報道機関ということになります・

   では、現在はどうでしょう?6年前の福島第一原発の重大事故以前のマスコミはどうだったでしょうか?また、いまだに原発を推進するマスコミはどうでしょうか?安全神話を信じ込まされた?大スポンサーの電力会社への忖度・配慮はなかったといえるでしょうか?
  
   また、安倍政権に露骨なマスコミ干渉(特にテレビ)はどうでしょうか?著者は朝日新聞に、「ネット社会における、自分と考えの合う情報にか触れず、異なる意見に触れない風潮が高まっている。(中略) 政権はどうせ二者択一なんだから政権を支持してくれる範囲内で語ればいい云々」と。これは、ある意味言論統制化に戦前より問題が深刻だと仰せです。詳しくは本書、朝日新聞5月19日付け「耕論」欄で。


 

2017年5月15日月曜日

憲法施行70年; 安倍総理 改憲の意味 55年体制 その5

白井 聡著「戦後政治を終わらせる」~永続敗戦の、その先へ (NHK出版新書)

ポスト55年体制へ三つの革命:
1)政治革命;2016年参議院選の野党共闘は、その奔り。
2)社会革命;基本的人権の尊重。国民主権の原理。男女の平等などなど、戦後の憲法に 書き込まれた、基本的な原理。これらの徹底化を図ること。
3)精神革命ー太初(ハジメ)に怒りあり:政治革命、社会革命にしろ、それらを実  ならしめるためには、それらを実行する立場に人たちに、それらを実行させるための圧力がかかるかと言うこと。

この革命には、血なまぐさいことは、何もありません。我々市民のできることでしょう。

2017年5月1日月曜日

憲法施行70周年 沖縄の歴史 日米地位協定④

2017年5月1日 朝日新聞 社会欄の記事

  本土の人間である自分は沖縄のことをあまりに知らないことに慄然とする。本土に人間は新憲法が出来、平和になると喜んで時期に、1945年12月の衆議院議員選挙法の改正で、女性の参政権が認めれられているそばで、沖縄県民の公民権が停止されてしまった。結果、沖縄県民からは議員がいなくなった。
  さらに、憲法施行後の46年、マッカーサーは政府高官に「沖縄の開発と駐留を順調に進めることで、日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全を確保できる」と話しているそうです。

  〈国家にとり実に容易ならぬ問題であり、見ようによっては沖縄県に対する主権の放棄とも相成っている。〉
これは、戦前、沖縄から議員になった漢那憲和氏が、公民権停止に抗議したときの言葉。

  さらに、〈このたびの戦争で沖縄県の払った犠牲は、その性質においておそらく全国一ではありますまいか。〉〈県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会において失われんとするの当たり、あらゆる手段を尽くし、これを防ぎ止めねば〉再考を迫ったが、内務大臣は「連合軍司令部の方の同意が得られませぬ〉との返事。

  内務大臣の言葉は、そのまま今の菅官房長官の「粛々と辺野古新基地の建設を進める」に通じている。

2017年4月19日水曜日

憲法施行70年 平和ボケ 戦争ボケ 日本語 ③ 

「日本語の難しさ」
  最近、「平和ボケ」、「戦争ボケ」と言う言葉を、SNSなどでよく目にします。
 「平和ボケ」は、政治をはじめとする世情の変化に無関心で、「今ある危機?」にも鈍感な市民にことを指しているのでしょうか?
  この「平和ボケ」は「戦争ボケ」の相対語でしょうか?私はそうは思いません。「平和ボケ」には、無関心であっても、その恩恵に浴している現実の世界にいる限り、それは十分立派な「平和ボケ」人であると思います。

  一方、「戦争ボケ」は相対語ではないと思う理由は、この言葉は正しくは「戦争忘ボケ」と「忘れた」を入れることで、その輪郭がはっきりするのではないでしょうか?「美しい国」とか「世界の中心で輝く国」とか何かと威勢のいい言葉を使って国民を「戦争忘ボケ」の状態にしておく事が、「積極的平和主義」とか言って、軍事力を強化している安倍政権の考えなんだと思います。ですから、「平和ボケ」は逆に安倍政権にとっては好ましくない国民、邪魔な国民のことを言う意味で、立派な存在ではないでしょうか?

  アメリカをはじめ何かと武力がないと平和が維持できないと思い込んでいる、所謂好戦国(交戦国ではない)は「戦争ボケ」しているのかも知れません。「力」が平和をもたらすと国の指導者が言っていますから。これは私から見れば戦争があって当たり前と言っているに等しいのですから、彼等は「戦争ボケ」でしょう。

  今の憲法が施行されて今年の憲法記念日は70年になります。同じ年に生まれた私にはこの年月は(日本が直接戦争に関わらなかったという意味で)平和な年月だった。即ち、この平和が当たり前、日本は戦争には加担しないということが、憲法に明記してあることで権力者に課せられていると、余り意識などしないでも自然とそう思ってきました。
  ですから、私は偉大な?「平和ボケ」老人でいればいいと思っています。そして、この「平和ボケ」が世界に広がればいいとも思っています。「戦争ボケ」からは破壊と死人しか作り出しません。怖いことです。















2017年4月9日日曜日

現代社会 国際情勢 普遍宗教(仏教 キリスト教 イスラム教 儒教)

橋爪大三郎・大沢真幸 対話本「ゆかいな仏教」より

       普遍宗教(仏教・キリスト教・イスラム教・儒教)
仏教以外の宗教はすべて大帝国あるいは峡谷の中でメインの宗教として採用され、時には国教化してきました。そして数多く現存します。(儒教は長い間、中華帝国という世界の文明の先進国という世界の文明の先進国として継承されてきた。

  仏教国はあるにはあるが、それ程の強い国ではない。覇権国や大帝国の権力と完全に一体化したことがない。現在でも、仏教は知的に継承され、またそれに憧れたり、修行したりする人がいる。仏教にはある強い合理性があったからである。拒否できない合理性が二千年をはるかに超える期間、人々を魅了してきた。

  キリスト教、なざれのイエスと言う人が出てきて、死んだが、その人は神(の子)であって・・・・・非合理性?

  仏教が波及したのはユーラシア大陸の東半分で、西半分はほとんど仏教が浸透しなかった。その地域に人々は、仏教についての皮膚感覚を全くもっていない。

  ところが、近代社会、現代社会の基本的な仕組みは、そのユーラシア大陸の文明から出てきたアイディアや制度に主に基づいています。これらが順調で、申し分ないのであればよいのですが、これらが、現在、そうとう面倒な問題を抱えています。立ち行かなくなっていることを、地球上のすべての人が自覚しています。

  そうであるなら、ユーラシア大陸のの西半分の人が、まったく知らない仏教というものの発想を検討してみることに価値がある。なぜなら、彼らの知らない合理的な核が仏教にはある。その合理的な核は、現在の行き詰まりに対して、示唆するもがあるかも知れない。