「折々のことば」鷲田清一(朝日新聞8/23付け)より
「悪」を名指しすること・・・ではなく、われわれをつなぎ合わせる代わりに引き離し、ぶつけ合う「弱さ」がもんだいなのです。 ヴァイツゼッカー
ナチスへの抵抗を呼びかけたミュンヘン大学生のグループ「白バラ」が封殺されてから50年後、当時のドイツ大統領は同大学でこう訴えた。
市民は「私生活に籠り」、文化人は「空論に傾斜する」。みなが「政治にうんざり」4となり。連帯の糸が切断されている。社会のその脆弱さを克服せねばと。演説集「言葉の力」
2017年8月25日金曜日
アジア主義 帝国主義 王道 覇道 東洋と西洋
中島岳志著「アジア主義 西郷隆盛から石原莞爾まで」潮文庫
文庫本としては600ページを超える分厚い本です。戦後侵略主義として否定された「アジア主義」。しかしそこには本来、「アジアの連帯」や「近代の超克」といった思想が込められていたはずだ。アジア主義がどこで変節したのか。
明治の「脱亜入欧」まっしぐらの日本が、やがて帝国主義に変貌して、結局無謀な戦争の結果1945年8月15日の敗戦を迎える。ここに至るまでの過程が分かる書です。
2017年8月17日木曜日
日本と朝鮮半島の歴史 柳宗悦(民藝学者)植民地政策 ①
韓国併合に抗議し続けた柳宗悦
「我々日本人が今朝鮮人の立場にゐると仮定してみたい。恐らく義憤好きな吾々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であらう」(三・一独立運動について、日本の帝国主義を批判)
さらに、「日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮も不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。(中略)私は虐げられる人々よりも虐げる人々のほうが、より死の終わりに近いと思う。前者に対しては人間の味方が立ち上がるだらうが、校舎には必ずや自然の刑罰が加へられる。(中島岳志著「アジア主義」西郷隆盛から石原莞爾まで)潮文庫より
「我々日本人が今朝鮮人の立場にゐると仮定してみたい。恐らく義憤好きな吾々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であらう」(三・一独立運動について、日本の帝国主義を批判)
さらに、「日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮も不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。(中略)私は虐げられる人々よりも虐げる人々のほうが、より死の終わりに近いと思う。前者に対しては人間の味方が立ち上がるだらうが、校舎には必ずや自然の刑罰が加へられる。(中島岳志著「アジア主義」西郷隆盛から石原莞爾まで)潮文庫より
日本とアジア主義 多様性 柳宗悦 ②
柳宗悦が26歳の時、バーナード・リーチに書いた手紙:
「真実、神、我々の故郷、われわれのエルサレムは、この現世の生活の中でわれわれが戻っていてゆき、そこに向かって巡礼するところですが、その故郷への道は、個人の気質(性格・内的原因)とその環境(外的原因)によってかなり異なります。明らかに、ここには我々が考えるべき二つの点があります。一つは、我々が登ろうと目指している頂きは普遍的な「一つ」のもだということ、もう一点は、その頂きに至る道程は「多数」であるといことです。
山の頂は一つです。しかし、頂上に至る道は複数存在します。ある人は東側からのぼり、ある人は西側からのぼります。急斜面をのぼる人もいれば、回り道をしながらゆっくりのぼる人もいます。しかし、最後は同じ頂上にたどり着きます。
柳は「真理」と「宗教」の関係を、山登りたとえました。真理は普遍的に一つです。しかし、真理に至る道は複数存在します。この道の違いが宗教の違いであって、真理の違いではないのです。-キリスト教の道もあれば、仏教の道もある。イスラームの道も、ヒンドゥーの道もある。しかし、最後は唯一の真理にたどり着く。
岡倉天心の「不二一元論」と同じで、多一的認識こそ「アジアは一つ」の根拠だお言い「多即一、一即多」の原理を「東洋の理想」の土台に据えました。中島岳志著「アジア主義」より
「真実、神、我々の故郷、われわれのエルサレムは、この現世の生活の中でわれわれが戻っていてゆき、そこに向かって巡礼するところですが、その故郷への道は、個人の気質(性格・内的原因)とその環境(外的原因)によってかなり異なります。明らかに、ここには我々が考えるべき二つの点があります。一つは、我々が登ろうと目指している頂きは普遍的な「一つ」のもだということ、もう一点は、その頂きに至る道程は「多数」であるといことです。
山の頂は一つです。しかし、頂上に至る道は複数存在します。ある人は東側からのぼり、ある人は西側からのぼります。急斜面をのぼる人もいれば、回り道をしながらゆっくりのぼる人もいます。しかし、最後は同じ頂上にたどり着きます。
柳は「真理」と「宗教」の関係を、山登りたとえました。真理は普遍的に一つです。しかし、真理に至る道は複数存在します。この道の違いが宗教の違いであって、真理の違いではないのです。-キリスト教の道もあれば、仏教の道もある。イスラームの道も、ヒンドゥーの道もある。しかし、最後は唯一の真理にたどり着く。
岡倉天心の「不二一元論」と同じで、多一的認識こそ「アジアは一つ」の根拠だお言い「多即一、一即多」の原理を「東洋の理想」の土台に据えました。中島岳志著「アジア主義」より
2017年8月6日日曜日
日本の近代化 明治維新 司馬遼太郎 明治150年の今を考える
磯田道史著「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」NHK出版
三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」岩波新書
磯田氏は、「司馬遼太郎は明治を「理想」と考え、明治と昭和が完全に断絶されている。と思っていたのは違う。社会の病というのは、現実の病気と似て潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう菌や病根は、やはり明治に生じていたのではないか。明治と言う時代は、まだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないか。」と言っています。ナショナリズムとパトリトティズムという比較も。
三谷氏は、大学での長年の研究ののち、「・・日本の近代について総論的なことを書くこと、そしてそのために日本近代化の概念的把握を試みることの重要性を知りました。(中略)カントによれば、人間の意識はすべて直観をもって始まり、直観から概念にいたり、理念をもって終わります。(中略)その理念の先に、理念によってのみ規定される理想があります。云々」とあとがきで述べておられます。
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