2020年5月6日水曜日

        【辛抱】と【我慢」の違いを考える

【辛抱】:環境の苦しさに押し流されないで、向上心をもち続けること。

我慢】:➀我(が)を立てる気持ちが強すぎ、自ら高しとする念が常に全面に出る意⇒⇒⇒⇒⇒自慢. 
     ➁少しくらい自説に無理があると分かっていても、意地で主張を通す様子。
     ③精神的・肉体的に苦しい事があっても意地で凌ぎ通し、弱音などは吐かない

新明解国語辞典には、以上のような解釈がなされています。

「我慢」は仏教の言葉です。ナーガールジュナ(龍樹)に始まる、大乗仏教の大事な教えの中に唯識論があります。興福寺・薬師寺などの法相宗が大切な教えとしています。
「世界は心の表象である」とし、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識+意識)この意識の奥に「未那識」があり、これが執着の源泉であり、更に倉庫の様に「阿頼耶識」がある。これらが蓄積され残滓⇒「薫習」タネとなりにおいがうつると言うことのようです。自我が執着し、未那識の歪んだ認識(我癡・我見・我慢・我受)これらの識を「智」へということのようです。
この中に出てくる「我慢」は;いつでも自分があると思い続けること⇒執着

この様に、我慢と辛抱はかなり違うと思いませんか。辛抱には向上心がありますが、我慢には、前向きな意味は無い様に想います。

今、世界は新型コロナウイルス禍の最中にあります。どのマスコミでも、我慢を使って、自粛(これは辛抱を求めている?)を言っています。

漢字(表意文字)は見てすぐその意味が分かる利点があります、我慢・自慢・怠慢・緩慢などなど、余りいい意味の熟語がないようです。

言葉は時代とともに、変化していきます。それが正反対の意味になっているケースも誤用されているケースも多々あります。

「家にいて辛抱しよう!」これが、今の新型コロナウイルス禍に対処する言葉ではありませんかね。

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