「日本語の難しさ」
最近、「平和ボケ」、「戦争ボケ」と言う言葉を、SNSなどでよく目にします。
「平和ボケ」は、政治をはじめとする世情の変化に無関心で、「今ある危機?」にも鈍感な市民にことを指しているのでしょうか?
この「平和ボケ」は「戦争ボケ」の相対語でしょうか?私はそうは思いません。「平和ボケ」には、無関心であっても、その恩恵に浴している現実の世界にいる限り、それは十分立派な「平和ボケ」人であると思います。
一方、「戦争ボケ」は相対語ではないと思う理由は、この言葉は正しくは「戦争忘ボケ」と「忘れた」を入れることで、その輪郭がはっきりするのではないでしょうか?「美しい国」とか「世界の中心で輝く国」とか何かと威勢のいい言葉を使って国民を「戦争忘ボケ」の状態にしておく事が、「積極的平和主義」とか言って、軍事力を強化している安倍政権の考えなんだと思います。ですから、「平和ボケ」は逆に安倍政権にとっては好ましくない国民、邪魔な国民のことを言う意味で、立派な存在ではないでしょうか?
アメリカをはじめ何かと武力がないと平和が維持できないと思い込んでいる、所謂好戦国(交戦国ではない)は「戦争ボケ」しているのかも知れません。「力」が平和をもたらすと国の指導者が言っていますから。これは私から見れば戦争があって当たり前と言っているに等しいのですから、彼等は「戦争ボケ」でしょう。
今の憲法が施行されて今年の憲法記念日は70年になります。同じ年に生まれた私にはこの年月は(日本が直接戦争に関わらなかったという意味で)平和な年月だった。即ち、この平和が当たり前、日本は戦争には加担しないということが、憲法に明記してあることで権力者に課せられていると、余り意識などしないでも自然とそう思ってきました。
ですから、私は偉大な?「平和ボケ」老人でいればいいと思っています。そして、この「平和ボケ」が世界に広がればいいとも思っています。「戦争ボケ」からは破壊と死人しか作り出しません。怖いことです。
2017年4月19日水曜日
2017年4月9日日曜日
現代社会 国際情勢 普遍宗教(仏教 キリスト教 イスラム教 儒教)
橋爪大三郎・大沢真幸 対話本「ゆかいな仏教」より
普遍宗教(仏教・キリスト教・イスラム教・儒教)
仏教以外の宗教はすべて大帝国あるいは峡谷の中でメインの宗教として採用され、時には国教化してきました。そして数多く現存します。(儒教は長い間、中華帝国という世界の文明の先進国という世界の文明の先進国として継承されてきた。
仏教国はあるにはあるが、それ程の強い国ではない。覇権国や大帝国の権力と完全に一体化したことがない。現在でも、仏教は知的に継承され、またそれに憧れたり、修行したりする人がいる。仏教にはある強い合理性があったからである。拒否できない合理性が二千年をはるかに超える期間、人々を魅了してきた。
キリスト教、なざれのイエスと言う人が出てきて、死んだが、その人は神(の子)であって・・・・・非合理性?
仏教が波及したのはユーラシア大陸の東半分で、西半分はほとんど仏教が浸透しなかった。その地域に人々は、仏教についての皮膚感覚を全くもっていない。
ところが、近代社会、現代社会の基本的な仕組みは、そのユーラシア大陸の文明から出てきたアイディアや制度に主に基づいています。これらが順調で、申し分ないのであればよいのですが、これらが、現在、そうとう面倒な問題を抱えています。立ち行かなくなっていることを、地球上のすべての人が自覚しています。
そうであるなら、ユーラシア大陸のの西半分の人が、まったく知らない仏教というものの発想を検討してみることに価値がある。なぜなら、彼らの知らない合理的な核が仏教にはある。その合理的な核は、現在の行き詰まりに対して、示唆するもがあるかも知れない。
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